嘉手刈林昌の声 1回目

うーん、いつのまにやら2ヶ月半以上ものブランク…

今回は、沖縄最高の唄うたい嘉手刈林昌の「声」について書きたい

嘉手刈林昌ってだいたい「島唄の神」とか「不世出の歌い手」とか呼ばれていて、そうした情報につられて「そんなスゴイ人がいたのか〜」と聞くことになる人が多いと思うのだ
で、最初に聴いたときに「うわ、なにこれヤバいんじゃね」と感激するよりも「えー、ほー、ふーん、そうですねー、あはは、いやーすごいんでしょうねー、やっぱりコレ」というビミョーな感想を抱く人のほうが実のところ多いのではないだろうか? 嘉手刈林昌の“声”、そしてその唄を聴いたときには

なんというか、おじいちゃんのちょっとくぐもったような声。艶とか張りとか、声の押し出しとか、そういう今の日本でおよそ唄がうまいと言われる人の、声の美点成分をおよそ欠いている声

その“声”はインパクト勝負で、単純即応的な楽しみを享受できる、ハリウッド─マクドナルド─ディズニーランドラインからはかけ離れた、というかまったく「無縁」のものなのだ

簡単に言ってしまえば、嘉手刈林昌を聴いたとき「えー、これが沖縄の伝説の歌い手なのー?」と思う人がほとんどだと思う。かくいう僕も「あー、こういうもんなんだ。でも竹中労が絶賛しているから、たぶんいい唄なんだろうね」くらいの感じだったのだ

で、そこで終わってしまってはあまりにももったいない。嘉手刈林昌の唄はとにかく聴けば聴くほど、その唄が当たり前のものに思えるくらいにまで聴き込んだあとで、実は当たり前でもなんでもない恐ろしいものだと気づくシロモノなのだ



そこまで嘉手刈林昌を聴き込むのに、おすすめなのは、飲んで聴くことだ。飲んで聴き、聴いたら飲み、酔ってまた聴き、聴いて酔う

聴くともなしに、飲みながら聴いているうちに、いつしかそこは極楽カテガルワールド

そう、確かにこの聴き方は、もうひとつの“島唄”であるレゲエの神、ボブ・マーリーを楽しむ方途とよく似ている(まあ、他の音楽も同じ言えばそれまでだけど)

そうやって聴いているうちに嘉手刈林昌の唄、その声は、他の唄うたいとは異なる、きわめて特別なものであることに気づいてくる、はずだ

力強く張りのある艶やかな声ではない、しかしそれはコシの強い枯れたなかに華がある聴くものを惹きつける歌声だ
よく言われる独特のハーフファルセット。この微妙な声のニュアンスの自由自在な転回はなんなのだろう。気づけば、このような唄・声をなしえた歌手が、他に比肩すべき者がいないことがわかるのだ

沖縄の偉大なミュージシャンである知名定男にしても登川誠仁にしても(登川誠仁は僕にとっては素晴らしい歌い手という評価ではないが)、さらには唄の美しさにおいてはまさに別格の域にある大工哲弘であっても、嘉手刈林昌のあの枯れてフラフラとした声の前には霞んでしまう

恐るべし、嘉手刈林昌

ちなみに嘉手刈林昌「白雲節」って、カラオケに入っているんですよ
酔った勢いで歌おうとしたことがあるのだけど、歌い始めて、その難易度のあまりにもの高いのに青ざめた記憶がある

ということでつれづれなるままにこの項続きます

※メモ的に書いておくと、嘉手刈林昌の歌唱法その声の、現在の「唄のうまさ」=ボイストレーニングやってここまで歌うまいですよ的な、歌うまいドヤ顔的な歌とのあまりにもの違いを記憶に留めておくべきだと思う
もちろん鍛えて鍛えて歌がうまくなることを否定すべきではない。しかしその唄を鍛錬する道のユニークさ、ないしはその歌い手の存在のユニークさといったものを、単一の歌唱メソッドが消してしまうこと(簡単に言えばカラオケでの唄のうまさに、唄の善し悪しが統合されてしまうこと)には強く“否”を突きつけるべきだ